【吉原校高等部】読書のススメ(その11)

国語界の「THE KING」あらかわです。この校舎ブログでは私が面白いと思った小説や作家をいろいろと紹介し、能書きを垂れたいと思います。

前回(前回はこちらをクリック!)から続く、恩田陸による傑作音楽小説『蜜蜂と遠雷』について、後半では「なぜ文面から音楽が聞こえてくるのか?」の正体に迫っていこう。

これは『蜜蜂と遠雷』のレビューを見ても分かるが、多くの人が感じているようだが、私は「音楽が聴こえたか?」と尋ねられたら、正直な私は「それはない」と答えるしかない。しかしこれは『蜜蜂と遠雷』の魅力と凄まじさを伝える上キーポイントとなってくる。

『蜜蜂と遠雷』で私たちの多くは、確かに音楽を聴いたような体験をしている。メロディーを聴いていないにも関わらずだ。なぜだろうか?これはつまり、『蜜蜂と遠雷』を読むことによって、私たちは音楽を聴いたのではなく、音楽を「感じた」からなのである。ここに『蜜蜂と遠雷』の凄さ、そして恩田陸という稀代の作家の恐ろしいまでの技量の高さが伺えるのである。

前半で書いたように、『蜜蜂と遠雷』ではコンテスタントの優劣を付けるために、あらゆる表現方法を駆使している。コンテスタントの技術を解説し、彼らの生き様を見せ、価値観を共有し、臨場感を演出し、感動を呼び起こし、音楽の素晴らしさをこれでもかと提供してくれている。人間が音楽に対して感じられるものが『蜜蜂と遠雷』にはすべて揃っている。
これは言い換えると「聴こえる」以外はすべて表現されていると言えるだろう。つまり『蜜蜂と遠雷』で聴こえる音楽というのは、上質な文章によって「聴こえる」の輪郭を色濃く縁取った結果、浮き上がってきたものなのだ。

文字で音楽を伝えることはできない。でも確かに私たちは『蜜蜂と遠雷』で音楽を感じた。矛盾した表現になるが、音楽が無かったとしても感じているのあれば、それは間違いなく『蜜蜂と遠雷』の中に音楽は存在していたという証拠である。

クロスモーダル現象などを代表するように、人は情報が足りていなくとも、補って修正する能力がある。人は不足を実感したときにこそ、強く印象を持つのである。
『蜜蜂と遠雷』を読み終えた、または読んでいる最中に作中の楽曲を検索した方はきっと少なからずいるだろう。でも本当に音楽が聴こえていたのであれば、そんな行為は必要ないはずだ。
だが、実際私たちが『蜜蜂と遠雷』で感じていたのは「音楽の輪郭」だったから、その埋め合わせがしたくなってしまうのである。ある意味で、その「音楽への飢餓感」が『蜜蜂と遠雷』を一気読みさせる原動力になっているのだ。