投稿者「羽鳥校」のアーカイブ

羽鳥校「講習参加・入学特典のお知らせ」

おかげさまで文理学院は創業から41年、会社設立から30年を迎えることができました。これは当塾の教育理念と学習・進路指導に対する地域の皆様のご理解、ご協力があったからこそだと思います。この感謝の気持ちをどうにか形にできないかと、この秋から様々な特典を準備させていただきました。

★冬期講習受講生(非塾生の小・中学生対象)

今後の季節講習で特典を受けることができます。まずは「春期講習」を特別料金で受講で!塾選びの体験授業にもお勧めです!

★塾生の弟妹「講習会特典」(小・中学生対象)

今回の冬期講習を皮切りに、今後の季節講習会へ小学生を無料招待、中学生を特別料金でご招待します!

★塾生の兄弟姉妹「入学特典」(小・中・高生対象)

11月入学から「弟妹の初月授業料」を無料とします! *兄弟姉妹同時入学も適用!(例)3人同時の場合は弟妹2人の初月授業料が無料です。

★入学金全面廃止

11月入学以降、どの月に入学しても入学金は一切いただきません!

入塾する際の最初のハードルは「初期費用」だと思います!

毎月の授業料の割引制度はありません。
理由は「もともと年間総費用をかなり安価に抑えているから」です。
安価に抑えることができる理由は「借金のない学習塾だから」です!!
賢く堅実な経営をモットーとしています。通塾にかかる費用、ぜひとも他塾・他予備校と比べてください。
年間費用は全て詳細にお伝えできます。
ぜひ、お問い合わせください。

こんな時代だからこそ「お子さんにかかる教育費」を
トータルバランスで賢く見直してみませんか?

文理学院 羽鳥校 ☎295-5587

羽鳥校2 ぼんくら道 Part 61 「四季」

こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
10月も半ばをすぎ、肌寒い日も増えてきましたね。
コートが欲しくなるような冷たい雨の日もあれば、
半袖でも良かった! という陽気の日もあり。
季節の境目らしい気候ですね。

吉田松陰のこと

四季の移り目というと、思い出す人物がいます。吉田松陰です。
今から百五十年ほど前の、江戸時代末期に活躍した武士で、
当時の長州藩、現在の山口県に生まれました。

ペリー来航(1853年)以来、開国か攘夷かをめぐり、混乱する時代の中で、
「松下村塾」という私塾を開き、
高杉晋作や伊藤博文を教育したことで知られています。

松陰は私塾の教師として、生徒の身分や能力を問わずに教えました。
「いつも温厚で、誰に対しても礼儀正しく、優しい先生だった」
という評がたくさん残っています。
吉田松陰は、とにかく生徒に愛された教育者でした。
松陰の教え子は、のちに尊王攘夷運動に身を捧げることになりますが、
彼らの多くは松陰の「思想」ではなく、
「人格」に惹かれたのではないかな? と個人的に思っています。

松陰自身は、明治維新を迎える前に、
幕府の弾圧(安政の大獄)に遭い処刑されてしまうのですが
松陰の教育した若者たちは、その後も長く活躍し
明治時代の日本を率いるリーダーになった人も多く出ました。

 
(松下村塾学舎。山口県萩市に現存しています。現地で撮影)

処刑直前、松陰が牢の中で書いた「留魂録」という文章があります。
「自然の中に春夏秋冬があるように、人間の一生にも四季がある」
というくだりが、その中に出てきます。
田おこしをする春、苗を植える夏、豊かな収穫を祝う秋、といったように
どんな人間の一生にも、そのような自然のリズムに相当する時期がある、という内容です。

松陰は、三十歳の若さで亡くなってしまうのですが、
百歳まで生きる人には百歳の四季があり、三十で世を去る自分には三十の四季がある、
長生きは人生の目的ではない、という意味になっています。

生涯に何度を身を捨てた行動をした、松陰らしさを感じる人生観ですね。

 
(静岡県下田市弁天島。松陰はここからペリーの黒船に乗り込み、アメリカに渡ろうとしました)

松陰が生徒を諭した言葉に、こういうものがあります。

「目先の安楽を求めても、所詮一時しのぎに過ぎない。百年の時は一瞬で流れてしまう。自分の時間を無為に過ごさぬよう心掛けなさい」

そんな言葉に動かされた若者たちの時代の先に、いまの私たちが住んでいます。

文理学院羽鳥校
10月入塾募集中

☎ 054-295-5587

 

第376回:「幸福」

保護者会のお知らせ
10/16(日)
中1・・・18:30~19:20
中2・・・20:00~20:50

★参加者名を、羽鳥校 生徒氏名で入力して頂き、入室して下さい。
また、資料は先日配布させて頂いたものをご用意ください。
保護者会アンケートのご協力もよろしくお願いします。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

羽鳥校SDG’s地域清掃

日時:11/5(土)13:30~14:30
場所:藁科川河川敷
*集合および解散場所は羽鳥校駐車場です。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

現在、中3土曜特訓授業中後半戦です。
隣家の金木製の香りが教室に届いています。
幸福です。

羽鳥校 白石

第375回:「秋の地域清掃のお知らせ」

羽鳥校
SDG’s秋の地域清掃

とき:11月5日(土)
時間:13:30~14:30
清掃場所:藁科川河川敷
持ち物:軍手

このポスターは荒瀬先生によるものです。
センスがシャレオツです。
🐇🐢🐇🐢🐇🐢🐇🐢🐇🐢🐇🐢🐇🐢🐇🐢🐇🐢

やってみて初めて
分かること

この地域清掃もその一つかと思います。
やってみると、かなり楽しいです。
終わってみると、とてつもない爽快感があります。

先日の豪雨により河川敷周辺の状態が一変しています。
安全に注意して、一緒に清掃活動しましょう。

羽鳥校 白石

 

羽鳥校:第374回「Yesの可能性」

中3保護者会(葵区)
ご参加ありがとうございました!

第1回学調分析から受験生になるための心構えまで、
葵区の3人の校舎長がそれぞれに熱く語らせて
頂きました。

保護者会の中でもお伝えしましたが、何か困り
ごとがありましたら、お気軽にご相談ください。
文理学院にはたくさんの情報と経験があります。
それらを活用されることで、

Noの理由より、
Yesの可能性が見えてきます。

受験に勝つように活用してください、文理学院を!

保護者会アンケートのご提出もよろしくお願いします。

羽鳥校 白石

羽鳥校:第373回「自然のシビアと希望と」

今回の台風で被害にあった皆様にお見舞い申し上げます。
実は文理にも被害に遭った職員がおりまして、
午前中からその自宅の片付けの手伝いに行ってきました。

まず、その台風の爪痕に驚かされました。こんな高さに
まで泥が!とにわかには信じがたい自然の猛威に恐れ
おののきました。被害のあったエリアは道路には乾い
た泥が、それこそ山道のように残っていましたし、
車ですれ違う際には、窓から土ぼこりが入って
きました。これらはテレビやSNSなどのメディアで
は分からない体験でした。
自然は本当にシビアです。

嬉しかったこともあります。
・仲間の家の片付けの手伝いに職員10人が
すぐに集まる。
・片付く、きれいになる。
・長田校の荻野校舎長の掃除器具で、はしゃぐ。
・車座になって、お昼を一緒に食べる。
・ピクニックみたいなひとときとなる。

シビア過ぎる自然を目の当たりにしつつも、
いい汗をかいて、楽しいひとときもあり、
個人的にいろんな気づきをもらうこともでき、
希望のある1日にもなりました。
仲間を大切にできる職場、会社で良かったと
つくづく思いました。

羽鳥校 白石

羽鳥校 休校のお知らせ

台風の影響で、冠水・停電・断水など被害があった地域があります。
校舎までの送迎・通塾の安全も考え、休校といたします。

なお、本日夜に実施予定でありました、
中3Zoom保護者会も延期
とさせていただきます。

振替授業日
保護者会実施日
それぞれ後日連絡いたします。

9/24(日)のSSクラス(豊田校)は通常通り実施いたします。

9/25(月)は通常通り実施いたします。
よろしくお願いします。

羽鳥校校舎長 白石大助

羽鳥校2 ぼんくら道 Part60 「ちょっと新潟へ」

こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
今日は朝から雨模様の静岡市。
台風も(?)、また来ているようですね。
お知らせがある場合は、このブログでお伝えします。

新潟へ

先日、車を運転して新潟県へ行ってきました。
会津編、京都編、につづく「旅もの」です。
新潟県といえば、「米の単作」で有名。授業ではかならず教えています。
長野県から北上し、
柏崎を過ぎて日本海沿岸に出ると、見渡す限りの水田が果てしなく広がっていました。

気分が上がってきますね。
私は司馬遼太郎のファンで、
十五歳のときに小説「峠」を読んで以来、
絶対に一度、新潟に行きたい! と
あこがれてきた土地なんです。

「峠」について

今から六十年前の1960年代に、
司馬遼太郎は、幕末・明治維新関係の小説を大量に執筆・発表しました。
自らも出征した昭和の戦争(太平洋戦争)を考えたとき、

「日本の戦争の本当の原因は、明治維新にあるのではないか?」

という思いに至ったそうです。
坂本龍馬を書いた「竜馬がゆく」、新選組と土方歳三を書いた「燃えよ剣」など
有名な作品がこのころ発表されています。
」もまた、同じ時期に執筆された作品で、
幕末の越後長岡藩(新潟県長岡市)を生きた武士・河井継之助を書いています。

河井は、新政府の西軍と旧幕府勢力の東軍が戦った戊辰戦争で、
新政府への従属を一方的に求めてくる西軍に対して、
藩の主権と独立を守るため、戦いを選んだ人物です。

この論理が、同じ東軍で戦った会津藩など、ほかの旧幕府勢力とは違っています。
東軍一般の戦争目的は、「徳川幕府の恩義に報いるため」というのが多いですが、
河井継之助の目的は、「長岡藩を独立国にする」でした。
乱世である幕末期には、本当にいろんな人物が出てきますが、
そんなことを考えた人は河井しかいません。
この突飛なアイデアを、彼は開港地横浜に来ていたスイスの武器商人から得ました。

「ヨーロッパには独立国スイスがある。ならば、日本にも独立国長岡藩を作ろう!」

ということです。
すごい思想ですよね。

明治元年正月、戊辰戦争が始まり、
会津攻略を目指す新政府軍は、六月には長岡に進みます。
河井は、新政府の参謀に自分の論を展開しました。

場所は、新潟県小千谷市にある「慈眼寺」というお寺です。
会見で使われた部屋が当時のままで残されていました。
河井はこの席で、次のように述べたと伝わっています。

①「新政府は会津征伐をするというが、それは薩長の私情の戦で、大義名分がない」
②「内戦を続けて国力を損なえば、日本が外国に侵略されるかもしれない」
③「新政府と会津藩は和平すべきで、我が長岡藩は中立国として仲介したい」

これらの提案は、新政府にとっては認められない内容でした。
会津攻めに反対ということは、我々の敵だ!
そう単純に思い込んだ参謀たちは、この論に怒り、
河井を追い返してしまいました。
戊辰戦争の中でも会津の戦いと並ぶ苛烈な戦闘になった
長岡の戦い(北越戦争)がここに始まります。

そんな歴史を持つ新潟県長岡市に、今回、二泊三日で行ってきました。
長岡や小千谷には、北越戦争で戦った人々のために建てられた記念碑が、
このようにたくさんあります。

ちょうどこのあたりに、当時は新政府軍の砲兵陣地がありました。
向こうに見える山は、朝日山、榎峠という長岡藩の陣地で
信濃川を挟んで向かい合った状態から、砲撃戦が発生。
この撃ち合いが長岡の戦いの初戦になりました。

新政府軍は、長岡藩のような小さな藩が立ち向かってきても、
簡単に潰すことができると考えていたことでしょう。
しかし河井は、戊辰戦争の発生することを数年前から予期しており、
何年もかけて藩を改革し、軍備も戦国時代の制度をやめ、
刀も槍も捨て、近代的な軍隊に作り替えていました。

中でも有名なのが「ガトリング砲」。手動式の機関銃です。
二門、アメリカから輸入していました。
薩摩藩、長州藩、会津藩どころか、旧幕府でも持たなかったものです。
また、最新式の大砲で射程と威力の高い「アームストロング砲」も購入。
兵士に持たせる銃はすべて最新式のライフルに更新し、全員に持たせました。
河井の改革のもとで、長岡藩は戦闘に備えていたのです。

小藩である長岡藩がこのように重武装しているとは誰も思わず、
長州藩の部隊は、戦闘で指揮官が撃たれ、戦死するなど
被害が続出しました。
しかし、毎日続いた銃撃戦の中で、河井も足を撃たれる重傷を負い、
両軍の兵士たちも、次々に倒れていきました。

北越戦争最大の激戦地となった「大黒古戦場」です。
博物館が作られ、戦いの激しさを今に伝えていました。

ここに一面に広がる水田は、かつては広大な沼地でした。
北越戦争では、泥の中で両軍の部隊が射撃と突撃を連日繰り返したため、
今でも、田畑や木の幹の中から、銃砲弾や、ライフルが見つかることもあるそうです。

長岡藩は激しく抵抗しましたが、大兵力の新政府軍に徐々に押されていき、
残存兵は会津に逃れ、さらに戦いました。
河井継之助は、戦闘での負傷がもとで、会津に後送される途中、命を落としました。

河井に対する評価は、現在でも分かれています。
自分の理想とするところを実現するため、行動力を発揮して実行した改革者という評価。
そして、平和な長岡藩を戦争に巻き込み、多くの犠牲者を出してしまったという批判です。
どちらも当たっていると私は思います。
多くの改革を成功させた河井継之助は、物事を行なうにあたって大事なポイントとして、次のような言葉を残しています。

「まわりの評価を気にしてやるようではだめである。自分が正しいと思ったことをすぐにやりなさい」

幕末に異才を煌かせた長岡の英雄・河井継之助の魅力は、今でも多くの人を惹きつけています。

 

文理学院羽鳥校
9月入塾募集中

☎ 054-295-5587

羽鳥校:第372回「1位!」

服織中2年 前期期末テスト
232点 学年位!

今年度より学年順位の発表がされなくなった服織中ですが、
225点以上の点数だったのが自分以外に3人、その3人が
友達だったこともあり、直接確認したとのことでした。
点数の情報交換は、上位者あるあるですね。

今回学年1位のAさんは、テスト前の集中力も凄いですが、
テストが終わった今も、英検に向けて自習室で黙々と頑張って
います。テスト結果の喜びをパワーにして、もう一つ頑張る
のがイイですね。

さらに、Aさんは1人で頑張ることもできますが、
勉強仲間と励まし合いながらやることもあります。
例えば

夕方から自習室 → 食事 → 質問 → 自習室

といったような集中を切らさない工夫があります。

次のテストも、さらに頑張って欲しいです!
学年1位 おめでとう!

羽鳥校 白石

羽鳥校2 帰ってきたぼんくら道 Part59「ちょっと西の方へ」

こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
夏がにわかに戻ってきたような、額に汗が浮かぶ気温の静岡市です。
まだまだ暑いですね。

先週末、一階の掲示を刷新しました!
定期テスト結果も、判明次第で掲示しています。
満点は、オレンジの紙にしました!
すごいぞ~。
次回のテストも、がんばりましょうね!

京都へ

ところで先日、急に思い立って
マイカーで京都へ行ってきました。

黒谷の金戒光明寺(東山の付近です)へまず行きました。
幕末期、幕府より「京都守護職」に任命された会津藩が本陣としたお寺です。
会津からの京都ですので、
ここへ行くことは最初に決めておりました。

応仁の乱ののち、大部分が焼け落ちていたものを
徳川家康が多額の寄付をして、再建させました。
京都有事のとき、この境内をもって幕府軍の出城にすることを
家康は当初から考えていたそうです。

寺域は広く、宿坊の数も多く、駐屯地としては最適な場所。
また見晴らしもよく、山上に登ると京都市中を一望できました。
二百五十年後、京都が再び戦場になることを、家康は予見していたんですね。
そういう人が時代を作るのだなあと改めて感じつつ、
会津藩士の墓所に手を合わせてきました。

二条城にも訪れました。
こんなに絢爛と華美な城を見るのは初めてです。
江戸幕府創設当時、すでに伝統文化の中心地だった京都で
徳川家の威信を知らしめるには、「武」ではなく
「美」で攻める! しかない!
そんな思いで、築城されたのかもしれませんね。

1867年、徳川慶喜はこの城郭御殿の中で「大政奉還」を行いました。
その様子は絵に描かれ、現代に伝わっておりますが、
あれは当時の絵師が想像で描いた「イメージ画像」なのだそうですよ。
それでも、あの絵があまりにも有名なので、
城の大広間では、等身大の人形を使って再現されたものを見ることができます。
一見の価値ありですよ!

さて、こちらは京都御所です。
1864年に幕府軍と長州軍が激突した「禁門の変」がここで起きました。
蛤御門を守る会津軍と長州軍の交戦が始まりとなったので、
「蛤御門の変」とも呼ばれています。

こちらが、その門です。

近づくと、おびただしい数の弾痕が刻まれていました。
門の傷あとは修復せず、今でもそのままに使われています。
「歴史」ですね。

文理学院羽鳥校 9月入塾募集中

☎ 054-295-5587