羽鳥校2 帰ってきたぼんくら道 Part39 「2月に思うこと」

こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
もう、2月の半ばを過ぎたんですね。
ついこの前、お正月だったような、気持ちもあるのですが、
月日が経つのは早いものですね。

2月といえば、毎年かならず考えるものがあります。「二・二六事件」です。

1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、
当時の大日本帝国の首都・東京は、30センチを超える積雪でした。
「天皇中心の政治による国家改造(=昭和維新)」を掲げる
陸軍青年将校の急進派グループが、26日未明より
千数百名の兵をひきい、反乱を開始。
雪の東京中心部を三日間にわたって占拠しました。

その間、首相官邸や大臣私邸が次々に襲撃をうけ、
内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清など、政府・軍の要人が多数殺傷されました。
近代日本で実行されたもののうち、最大規模の政治テロでした。


(戒厳司令部が置かれた東京・九段会館。2015年、取り壊しの噂が上がり、撮影に行きました)

大学で近代史を専攻していた頃、この事件が気になっていました。

二・二六事件とは何だったのか?
反乱した軍人は何を考えていたのか?

学生当時の研究テーマでした。
関連する文献を読んで調べたり、考えたり、文章にまとめたり。
事件を理解しようと一生懸命研究しました。
今でも、それは続けています。
「歴史を理解する」という仕事は一生のもの。まだまだ自分も「道半ば」なのです。

それで、毎年2月になると、「ああ、またこの季節が巡ってきたなあ」と感じるのですね。
今日は、この事件について少しだけ、短く語れる範囲で語ってみようと思います。

事件はなぜ起きたのか

「明治維新に続く昭和維新を実現し、強力な政府を作って国内外の問題に対処する」
これが、反乱将校の一致した目的でした。
事件当時における彼らの現状認識は、以下のようなものでした。

①「今の帝国は、天皇中心の政治が行われていない! 政治家は政党の利益だけを考え、国の利益を考えていない」
②「多くの国民は貧しい! それなのに財閥は富み栄え、格差はどんどん広がっている」
③「天皇陛下は、国内のこうした状況を御存知でない! 大臣や側近が真実を隠し、天皇に知らせないようにしているからだ」

これらの現状認識は、反乱将校が提出した「蹶起(けっき)趣意書」や、
書き残した手紙、日記、遺書に見られ、彼らは強く信じ込んでおりました。

今から考えると、独断と思い込みのかたまりような考えですが、
当時の右翼思想家の間では、これらの考えは狭い意味での「常識」でした。
政治的に自由なメディアがなかった時代でしたので、
政治思想は狭いサークルの中でのみ、くり返し討論され、
それが続くうちに、議論の過激さが増していったと想像できます。

反乱の実行

全体の反乱プランは、次のようなものでした。

「天皇を政治から遠ざけている側近・大臣を武力で排除する」(第一段階)
「軍人中心の内閣を作り、天皇による政治(親政)を実現する」(第二段階)
権力と富を天皇の政府に集中させ、国内外の問題に挙国一致であたる」(最終目標)

そして、第一段階の途中まで着手したのが、いわゆる「二・二六事件」なのですが、
よく知られている通りの経緯で、これは完全失敗に終わりました。

総理大臣の暗殺に失敗し、内閣を倒すという前提が成立しなかったことと、
天皇と大臣・側近の関係をそもそも見誤っていた(天皇は大臣たちを深く信頼していた)ことが重なり、
軍は反乱鎮圧の姿勢を明らかにし、包囲と圧力を強めました。
29日までに、反乱軍の全兵士が、説得に応じて元の部隊にもどり、
首謀者たちが逮捕されることで、事件は終息しました。
しかしこの反乱鎮圧ののち、もとのような政党政治に戻ったかというと、そうではなく

「このような反乱が二度と起きないよう、軍人の統制を強化し、軍部の権力を強める」

という、むしろ逆の方向に行ってしまったことで、
大正期には廃止されていた「軍部大臣現役武官制」が復活するなど、
政治に対する軍の影響力が、絶大なものになっていくきっかけになりました。

この事件について考えるとき、いつも思うことは、
「閉じた仲間内の中でだけ、考えをめぐらし続けていると、
現実離れした思考・結論になってしまう」
ということです。

特に歴史は、全体の流れと、部分部分をつなぐ「関節部」を、
確かな知識で理解するのが大切です。
教科書をよーく読んでいるのに、「なかなか理解できない! 覚えられない!」
とお悩みのお子さん、もしいましたら、

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それでは、今日はこれにて。