羽鳥校2 帰ってきたぼんくら道 Part40「行間を埋めるお手伝い」

こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
まだまだ寒い風が吹く日々ですが、
だんだん、暖かい春が近付いてきているような
気配も感じる毎日ですね。
静岡では、梅の花も満開に咲き、
桜も、早咲きの河津桜などは、咲き始めていますよ。

桜といえば、吉野(奈良県)の花見が特に素晴らしいそうで、
私は、まだ花の季節に行くことはできてませんが
いつか絶対見に行きたい!! と思っています。


(南朝皇居・吉水神社。私が訪れたのは2017年の秋でした)

後醍醐天皇が仮の住まいとした、吉野の行在所(あんざいしょ)がここにありました。
鎌倉幕府滅亡後、「建武の新政」の混乱、足利尊氏の挙兵によって
後醍醐天皇は京都から逃れ、朝廷の機能を吉野に移しました。
足利尊氏は、吉野の朝廷を認めず、新しい天皇を京都で即位させました。
吉野の朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が並び立つ時代が約60年続き、
この時代を「南北朝時代」といいます。

南北朝時代に関しては、「太平記」「梅松論」という二つの文献があります。
「太平記」は軍記物語で、南朝(後醍醐天皇)の事績を賛美する内容。
「梅松論」は歴史書で、北朝(足利尊氏)にも理解を示し、中立的な内容です。
日本全体が二つの勢力に分かれて争ったので、解釈のずれもありますが、
同じ事件で食い違いがある場合は、歴史書である「梅松論」の記述が基本的に信用されています。

私の話になりますが、この「南北朝時代」というものが、学生の頃、あまり理解できませんでした。
教科書の記述では、
尊氏が、武家政権の復活を目指して兵を挙げると、新政は2年半で崩れ去りました
というシンプルな文で書かれています。
ですが、当初は後醍醐天皇と歩調を合わせて戦っていたはずの足利尊氏。
なぜ、急に変心し、兵を挙げたのか?
この大事な点が省略されているので、わからなかったのです。

①「建武の新政」が天皇中心、貴族優先、武士に冷たい政治だった、という背景
②北条氏残党が起こした反乱(中先代の乱)鎮圧に向かった尊氏のもとに、多くの武士が集まってしまったこと
③大軍勢を率いる足利尊氏に対する後醍醐天皇の疑心暗鬼
これらが重なり合い、後醍醐天皇と足利尊氏の対立が戦火を呼ぶことになりました。

教科書の行間を埋めること
これが、歴史を理解することだとすれば、
そのお手伝いをすることが、教師の仕事だと考えています。
お任せください!
文理学院は、教えの達人が集まる塾です。

「先生! この時代がわからないです」

といったことがもしあれば、
遠慮なく声を掛けてくださいね!

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それでは、今日はこれにて。