【社会科の裏側】鎌倉幕府?いやいや、長くなりますよ?

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副校舎長の横森です。

とうとうを乗り換えました!
トヨタの86、男の子なら一生に一度は乗りたいスポーツカーです!

夢の車を買った自分もうれしいですが、他の先生方も喜んでくれました。
やっぱり車はいいですね。むこう10年は大切に乗ります。

さてナンバー。よく言われるのが、
「これ、鎌倉幕府?」
です。

実は前の車・アルテッツァも同じ番号でした。

この番号には当然意味があるのですが、
さて、中学生のみなさん。
1192年は何があった年でしょう?
・・・。
・・・・・・。
答えられますね?
昔の教科書と今の教科書で違う、「鎌倉幕府」
ちょうど大河ドラマでも話題になっているところなので、解説してみましょう。

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祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
保元・平治の乱を通し、武士から貴族に成り上がった平家
「平家にあらずんば人にあらず」と言わんばかりの栄華を極めます。

この平家に対し、貴族もそして地方の武士たちも反抗し、
ついには源氏の御曹司・源頼朝が押し立てられ、平家討伐に兵を挙げます。
頼朝のいとこ・義仲と弟・義経の奇才で平家は追い詰められ、ついに1185年壇ノ浦の戦いで滅ぼされます。

さて。問題はここから。
朝廷は軍頭に立ち、実際に平家を滅ぼした義経に左衛門府(朝廷の警備をする役所)の判官(上から三番目)という官職を与えます。
これにお兄ちゃん・頼朝は大激怒
「義経は俺の部下であって、義経の率いていた軍も俺の軍隊なのに!」と。
頼朝は大軍を派遣して、1185年最高権力者・後白河法皇に、
義経逮捕のための「守護・地頭」の設置を認めさせ、日本各地を支配します。
しかし、後白河法皇は平家の時代から平家や藤原氏と対等に渡り合い、50年間に渡り最高権力者であり続けた人物。
そう簡単に頼朝に全権力を認めません。

その後白河法皇が1192年の3月、崩御します。
50年間日本の頂点にあり続けた「治天の君」の死の影響は大きく、
後を継いだ孫・後鳥羽上皇のプレッシャーも相当だったことでしょう。
「帝、ご不安でしょう?武士を束ねることは欠かせませんよ、頼朝を武士として一番偉い役職にしてやりましょう?」
と、頼朝に協力する貴族・九条兼実のささやきを受けて、
1192年に後鳥羽上皇は、頼朝を征夷大将軍に任命します。

1185年に支配権を手に入れ、1192年に武士の頂点に立つことで成立したのが、
武士により新しい政治体制「幕府」でした。
(ちなみに将軍のことを「鎌倉殿」と呼び、将軍の下に執権・北条氏を中心とする13人の合議制が敷かれていました。これが「鎌倉殿の13人」です)

鎌倉幕府の成立について、現在ではどちらかと断定することはしません。
ただ、平安時代最後の権力者・後白河法皇の崩御が歴史の変わり目になったのは間違いないはずです。
後白河天皇すげぇ……と思い、「歴史の変わり目」であるこのナンバーをずっと付けています(笑)
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歴史はドラマ、ストーリーです。
熱くなれる人物や出来事を見つけると、とっても楽しいですよ!

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