【高等部中島校】テスト前の慌ただしさの中で

中島校舎 高等部 土曜の人 加藤です。

山梨の校舎では来週が学園祭の人が多く、どの生徒さんもクタクタな様子で授業を受けていました。クタクタでも来ることが本当にえらい。少しでも自分の力にしようと必死に授業を受けてくれていました。こちら中島校舎では定期試験2週間前、というか2週間を切っている状況ですね。まだまだお昼の段階でも続々と自習室にくる生徒さんがいっぱい。こちらも定期試験までに少しでも自分の力をつけようと必死になってくれています。

どちらもベクトルは違えど自分のために必死に頑張っている。素晴らしい。そう、自分のためなんですよね、最終的には。「課題の出し忘れで怒られるから」、とか、「試験の出来が悪くて怒られるから」、とか。「怒られる」を避けるための勉強になっている人が増えているんじゃないでしょうか。

最初はそんな動機でも全然いいと思うんです。勉強しなかった→できなくて怒られた。だから勉強した→できて褒められた。いいサイクルです。でも高校生の勉強って、「できて褒められた」が極端に減るんですよね。できて当然みたいなノリがすごく多くなる。扱う教科、科目の多さや触れる単元の多さを考えたら一個一個の扱いが軽くなってしまうのは仕方ないですが、達成感を感じずに次へ次へと単元が進むせいで、いつしかできた!嬉しい!の感覚が薄れてしまうプラスの感覚が薄れて、マイナスだけが残ってしまい、「できなかった=怒られる」の部分だけが残ってしまうのでしょうか。

僕が勝手に思っているだけで、本当は違うのかもしれません。でも「できた、ほめられた、嬉しい」の感覚が確実に薄れているのが高校生

自分の経験ですが、自分の高校の担任の先生、すごく怖い数学の先生でした。(今でもその高校にいらっしゃるのでこんな事を書くのはちょっと気が引けますが)その怖い先生がとある日の授業、数学の「解と係数の関係」の話をしている時でした。「どんな数字が答えなのかわからないのにこれを考えるだけで、この計算式のこの形とこの形の値が求まっちまうんだ、すげ~だろ!」と。満面の笑みで。

普段あれだけ怖い人が、ただ公式の使い方を教えるだけの場面で、こんなにも僕らに今まで見せたことのない楽しさ、嬉しさを、感動を前面に押し出しているなんて!衝撃でした。僕自身、上に書いたような状況だったのでしょう。「できる」ことへの感動なんて薄れているなかで、この、ほんのささいな一場面だけは鮮明に覚えています。「できる」ことって凄いんです。「感動」するんです。感情が動く様をその担任の先生から受け、自分の考えが大きく変わったきっかけになったな、と改めて思います。

褒められなくても、怒られても、その公式が、構文が何を伝えているのか、何ができるのかに「感動」できるようになったことで、勉強への取り組み方が大きく変わりました。その感動があるからこそ、自分の力として吸収できるんだな、と。公式が構文が増えるたびに、「覚えなきゃいけない事が増えた」のではなく、「自分が表現できる事が増えた」と思える大きなきっかけとなりました。

もしやる気がでない、動き出せない人がいるなら「感動」を持って勉強をしてみて欲しい。自分ができることが一つ増えるだけでも、自分の表現できることが2倍にも3倍にもなることを知って欲しいと願いながら締めようと思います。わかった、できた、覚えたの感動を毎日。