【中島校】2022年の折り返し地点

こんにちは、中島校の平田です。

 

先日、卒業生のWくんとEくんが差し入れと言って飲み物を持ってきてくれました。部活で忙しい中、わざわざ届けてくれました。久しぶりに元気な顔を見られて、非常に嬉しかったです。

 

テスト対策が一段落して、気がついたら6月17日。6月ももう後半ですね。。2022年も半分が過ぎようとしています。

 

慶長16(1611)年6月17日、豊臣家三中老の一人、堀尾吉晴が亡くなりました。堀尾家は吉晴の孫・忠晴が後継のないまま亡くなったため、断絶してしまいました。

慶長5(1600)年、天下分け目の関ヶ原の戦いがありました。関ケ原には吉晴の代わりに息子・忠氏が参加しました。

この時忠氏と行動を共にしていたのが、吉晴の盟友・山内一豊でした。全国の大名が徳川方につくか、石田方につくか迷っていて、優柔不断な一豊は、親子ほど年齢の離れた忠氏に相談しました。忠氏は徳川方につくと即答、しかも自分の城も領地も家康に差し出すと言いました。

そして軍議が開かれました。その場にいる大名が徳川方につくことを宣言していく中、年若い忠氏は気後れしてしまい、自分の「名案」をなかなか発言できませんでした。そんな中、一豊が立ち上がり、忠氏の「名案」を発表しました。望外の提案に感動した家康は、一豊を絶賛しました。これに乗り遅れまいと、その場の大名も皆城と領地を差し出したため、家康は何の障害もなく、関ヶ原に向かうことが出来ました。

この功績で一豊の領地は掛川5万石から土佐20万石に大幅アップしました。

もし忠氏が自分の「名案」を発表できていたら、徳川家の堀尾家に対する対応も変わっていたかもしれませんね。自分としては、忠氏が一豊に「名案」を漏らさなかったら、家康はスムーズに関ヶ原に向かうことができず、合戦にも大きく影響したのではないかと思います。

夏期講習説明会は明日6月18日(土)午後4時開始。

文理学院に興味がある方のご参加をお待ちしいおります。

ご都合がつかない場合は個別説明会も行っておりますので、お問い合わせください。

中島校0545-32-6027

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